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全国の施設178カ所

07年3月に旧日本郵政公社が一括売却した不動産のうち、旧沖縄東風平(こちんだ)レクセンター(沖縄県八重瀬町)を評価額1000円で取得した東急リバブルが、那覇市の学校法人に4800万円で転売していたことが4日分かった。衆院予算委員会で国民新党の下地幹郎議員が明らかにした。

 下地氏によると、学校法人は3500万円で契約しかけたが、東急リバブルが「競争相手がいる」と言ってきたため、4800万円で契約したという。

 この時の一括売却は東急リバブルなど7社が共同で178件の不動産を115億円で落札。その中に含まれていた鳥取県岩美町や鹿児島県指宿市の「かんぽの宿」には1万円の評価額がつけられ、鳥取県のかんぽの宿は6000万円で転売された。日本郵政は「178件の資産評価は114億円だったが、落札価格はそれより1億円高かった」と説明している。
旧日本郵政公社が「かんぽの宿」と一緒に売却し、購入者の東急リバブル(本社・東京)が千円と評価した沖縄県内の運動場を、沖縄尚学高校を経営する学校法人・尚学学園(那覇市)が4900万円で購入していたことが分かった。沖縄尚学高は選抜高校野球大会で2度優勝した甲子園の常連校。今は野球場として使われているという。

 国民新党の下地幹郎衆院議員(沖縄1区)が4日の衆院予算委員会で概要を明らかにした。下地氏が入手した資料などによると、東急リバブルが転売していた沖縄の施設は、旧沖縄東風平(こちんだ)レクセンター(沖縄県八重瀬町)。同社と旧郵政公社は07年3月に契約し、所有権が移った。運動場で、広さは9873平方メートル。この土地を尚学学園が購入した。同校は3583万円で購入する予定だったが、「競争相手がいる」などと言われ、4900万円で購入したという。

 この売却案件について、日本郵政は4日夜、旧沖縄東風平レクセンターの鑑定評価額が6256万円だったことを明らかにした。この値段を東急リバブルが市場価格に沿って引き直し、立地や収益性を考えて評価額を千円にしたとみられる。東急リバブル広報IR課は「個別の取引内容は答えられない」としている。

 旧郵政公社は07年、全国の施設178カ所を総額115億円で一括売却した。東急リバブルや穴吹工務店など計7社による共同購入だった。その中には、買い手が1万円と評価し、社会福祉法人に6千万円で転売された鳥取県内の旧「かんぽの宿 鳥取岩井」も含まれていた。

 この案件は、日本郵政がオリックス不動産にかんぽの宿を109億円で一括売却する契約とは直接関係していない。ただ、不動産業者が多額の転売益を得ていることが発覚し、鳩山総務相や野党が日本郵政の不動産売却のあり方を問題視している
鳩山邦夫総務相の強い反対を受け、日本郵政は「かんぽの宿」70施設のオリックス不動産への一括譲渡を凍結した。建設事業費の20分の1以下という譲渡価格には「たたき売り」批判が続き、鳩山総務相は4日、日本郵政に譲渡決定までの詳細な報告を行うよう命じた。突然の「待った」に戸惑う日本郵政。郵政民営化を含む小泉構造改革の見直し機運盛り上げや、次期衆院選をにらんだ政治的な思惑も絡み、「かんぽの宿」は迷走している

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国のバックアップ

米と対等の「土俵」必要 細胞できる過程 解明し効率化
 様々な臓器・組織になる能力を秘めた新型の万能細胞「人工多能性幹細胞(iPS細胞)」。人の皮膚からiPS細胞を初めて作製し、注目を集めている山中伸弥・京都大教授に、研究の見通しなどを聞いた。

 ――研究生活に変化は。

 山中 今までと変わりはないが、世界中から再生医療をはじめ様々な共同研究の申し入れがきている。米国からは、特定の病気のiPS細胞を作り、薬の候補となる化合物探しや副作用の実験に使いたいというのが大半だ。できるだけ要望に応じられるよう、若手研究者にiPS細胞の培養を指導しているが、提供には限りがある。

 ――iPS細胞研究センターが発足、オールジャパン体制も整いつつある。

 山中 まだレースは、マラソンで言えば、折り返し手前の10キロ地点を過ぎたばかりで、先は長い。

 臨床や創薬への応用には、やらなければならないことが多い。安全性の向上、狙った細胞への分化(変化)誘導、動物を使った移植の実験だ。国内の協力体制を強化し、いかに効率よく早くやるかだが、欧米諸国の目標も同じ。見通しは非常に厳しいと思っている。

 ――それはなぜか。

 山中 日米の幹細胞研究は、マラソンでいえば、米国は研究者を支援する体制が整い、個人に合わせたウルトラスペシャルドリンクを1キロごとに置いてある。一方、日本は1人で、「水があればいい。根性でいけ」という。同じコースで走ったら勝てるわけがない。

 今回、国内から予想を上回る支援をいただいた。それでも、ようやく共通のドリンクの粉を水に溶かして飲めるようになった程度。米国に勝ってくれという期待はあるだろうが、そう甘くはない。日米の差は冷静に判断する必要がある。

 ――どうすればいいか。

 山中 できることは二つある。一つは棄権すること。もう一つは、負けるとわかりつつも頑張る。棄権すると、ここから先の知的財産はすべて外国のものになる。日本発の技術が応用された時に莫大(ばくだい)な特許料を払わなければならなくなる。だから棄権はできない。米国の10分の1でもいいから知財を出し続ける努力をすることだ。それには対等に勝負できる体制が必要だ。

 ――若い研究者の育成が重要だ。

 山中 欧米と比べ貧弱な環境のなか、日本の若手研究者は頑張っている。研究環境をよくしてあげると同時に、基礎研究の地位を上げることも重要だ。資源もない日本で、科学技術は世界で優位に立てる原動力。基礎研究に若い人が集まるようにしないといけない。

 ――研究の展望と課題を。

 山中 iPS細胞を作製するのに導入した3遺伝子がすべてではない。数千個の皮膚細胞からできたiPS細胞はたった1個。なぜその1個ができたかがわかれば、効率を高めることができる。遺伝子の代わりに万能性を引き出す化合物の探索も、米国相手に苦しい戦いになるだろうが、先を越されてももっと優れた化合物を見つければいい。

 臨床に近づく分化誘導は、ES細胞(胚(はい)性幹細胞)の成果が利用できる。国の規制があるES細胞とは違い、iPS細胞は自由に使えるので、研究のスピードは格段に上がるのではないか。

京都大学の山中伸弥教授が作製に成功した新型万能細胞(iPS細胞)。再生医療の切り札と期待を集め、「ノーベル賞級の研究成果」と評価される。iPS細胞が、なぜこれほど注目されるのか、将来的にどんな医療を切り開くのか、研究の現状を探った。

Q1 なぜ世界が注目 ES細胞に比べて、倫理的な問題が少ないiPS細胞の利点を強調する、山中伸弥・京大教授(2008年3月、横浜市で)
 人間は約60兆個の細胞からなる。元々は1個の受精卵が分裂を繰り返し、神経や筋肉、皮膚など体を構成する約200種類の細胞に変化したものだ。受精卵は様々な細胞に変化する「万能性」を持つが、いったん神経などに変化すると、もう別の細胞に後戻りできないと考えられてきた。

 この生物学の常識を覆したのが、iPS細胞だ。皮膚細胞に数種類の遺伝子を入れるだけで、万能性を獲得する。こうした細胞の中の時計の針を巻き戻す現象は初期化(リプログラミング)と呼ばれ、iPS細胞の開発は「タイムマシンの開発」と称賛された。

 iPS細胞の正式名は人工多能性幹細胞(induced pluripotent stem cell)。iが小文字なのは、人気音楽プレーヤー「iPod」にちなんだという。

 iPS細胞の登場で期待が高まっているのは、病気やけがで失った機能を回復させる再生医療の実現だ。

 たとえば、心臓の細胞(心筋細胞)の一部が壊死(えし)している心筋梗塞(こうそく)の場合、iPS細胞から変化させた心筋細胞を、患者の心臓の壊死した部分に移植すれば、心機能の回復が期待される。インスリンというホルモンの不足で起きる糖尿病も、iPS細胞からインスリンを分泌する、膵臓(すいぞう)のβ(ベータ)細胞を作って患者に移植すれば、治療できるとみられている。

 現在はまだ技術的に難しいが、iPS細胞を使い、心臓や肝臓など臓器を丸ごと作って取り換えることも、将来できるかもしれない。

 iPS細胞の登場で再生医療の夢が広がったが、安全性の確認など実用化までには10年以上かかると予想されている。一方で、すぐにでも活用できると見られているのは、iPS細胞を使った病気の原因解明や新薬開発への応用だ。

 それぞれ神経や筋肉の難病であるパーキンソン病や筋ジストロフィーなどの患者から、iPS細胞を作製して、神経や筋肉に変化させる過程で、どんな異常が起きているかをつぶさに観察することで、病気発症の仕組みが解明できると期待されている。新薬の効果や毒性もシャーレ上で確認できる。国内外の製薬業界も注目し、研究が加速している。

Q2 ES細胞に対する利点は?
 iPS細胞の利点は二つある。一つは倫理的な問題が少ない点だ。同様に万能細胞として注目されている胚(はい)性幹細胞(ES細胞)は、人の生命の萌芽(ほうが)である受精卵を壊して作るため、実用化に向けた障壁になっていた。米ブッシュ大統領は、人のES細胞を作製する研究に連邦予算を付けることに強く反対。日本でも、人のES細胞研究が、国の指針で厳しく制限されている。

 その点、iPS細胞は、皮膚細胞などから作製できるため倫理問題は少ない。「受精の瞬間」を人の誕生ととらえるカトリックの影響が強いイタリアなどでも、万能細胞の研究を推進できるようになった。

 もう一つの利点は、患者本人の細胞から作製できるため、拒絶反応の心配がないことだ。

 患者本人の遺伝情報を持たないES細胞では、拒絶反応が避けられない。これを回避するには、クローン技術を使って、卵子に、患者の皮膚細胞などの細胞核を入れた「クローン胚」を作製し、そこから患者本人の遺伝情報を持つES細胞を作る必要があった。

 クローンES細胞は、人ではまだ作製に成功していないが、クローン人間作りにつながる恐れなどから、多くの国が作製を厳しく制限している。

 iPS細胞を利用すれば、クローン技術を使う必要がなくなる。世界初のクローン羊ドリーを誕生させた、英エディンバラ大学のイアン・ウィルムット教授も、すでにiPS細胞の研究に着手している。

Q3 作り方は?体細胞に遺伝子注入
iPS細胞の作製は簡単だ。「基本的なバイオテクノロジー技術があれば誰でもできる」(山中教授)という。 取り出した皮膚や胃の細胞などに2~4種類の遺伝子をウイルスを使って入れ込むだけ。遺伝子は、山中教授が、ES細胞の万能性にかかわる遺伝子の中から探り当てた。最初にマウスのiPS細胞を作った際には「Oct3/4」「Sox2」「Klf4」「c―Myc」の4遺伝子を使用した。 また、米ウィスコンシン大のジェームズ・トムソン教授らは、山中教授が使った「Oct3/4」「Sox2」の2遺伝子に、別の2遺伝子を組み合わせた方法で成功している。 しかし、これらの遺伝子は、細胞のDNAの狙った部位に入れることができず、細胞ががん化する恐れもある。そのため、使う遺伝子は少ないほどよく、山中教授は、4遺伝子のうち、がん遺伝子の「c―Myc」を抜いた3遺伝子でもiPS細胞を作製している。 作製法はこれだけではない。米スクリプス研究所のシェン・ディン准教授は、安全性の高い化合物と2遺伝子を組み合わせた方法でも成功した。安全で効率の良い作製法を巡って、世界が激しい競争を繰り広げている。

Q4 研究の現状は?競争激化、国内拠点も着々
 2006年8月に、山中教授がマウスのiPS細胞の作製を発表して以来、世界中で研究に火がついた。

 昨年暮れには、米マサチューセッツ工科大(MIT)などのチームが、iPS細胞由来の造血幹細胞(血液のもととなる細胞)で、重症貧血マウスの症状改善に成功した。人間には赤血球が変形して、酸素の運搬能力が低下する「鎌(かま)状赤血球貧血」という遺伝病があるが、こうした病気の治療につながる成果という。

 米ハーバード大などのグループは8月7日、パーキンソン病や糖尿病など10種類の病気の患者の皮膚などから、iPS細胞の作製に成功したと発表した。いずれも抜本的な治療法のない難治性疾患で、原因を解明することで新薬の開発につながると期待がかかる。

 こうした激しい国際競争に対抗するため、日本でも研究拠点の整備が進む。

 慶応大は、iPS細胞から作った神経細胞を、脊髄(せきずい)損傷マウスの患部に移植する実験で、マヒをある程度回復させる効果を上げている。交通事故など不慮の事故で脊髄を損傷した患者に希望を与える成果だ。国立病院機構大阪医療センターと共同で200種類以上のiPS細胞を作るバンクの設立も目指している。

 京大は、マウスiPS細胞から、心筋梗塞などの治療に役立つ心筋細胞や毛細血管の作製に成功。ほかに、マウスiPS細胞からは、輸血治療につながる血小板(東京大)や、視力の回復に必要な網膜の細胞(理化学研究所)などができており、図のように国内の研究も着実に進展している。

 世界各地の研究成果を、医療や創薬開発につなげるには、標準的な作製法や評価法が必要だとの意見が出始めており、研究者間で協調する動きもある。

政府、研究支援に本腰「オールジャパン」体制へ
 日本発の革新的な技術であるiPS細胞。「再生医療の発展に大きな可能性を切りひらく画期的な成果」(福田首相)として、政府も過去に例のないスピードで支援策を打ち出した。

 文部科学省は、人のiPS細胞作製の公表からわずか1か月で、今後5年間で総額100億円の研究費を投入する計画を策定。今年4月には、京大iPS細胞研究センターを中心に、約20の大学などでつくる研究ネットワークを発足させた。政府の科学技術政策を決める総合科学技術会議は6月、iPS細胞の実用化に向けた工程表を策定し、世界に先駆けてiPS細胞を使った再生医療の実現を目指す。

 こうした一連の動きは、国のバックアップなしに研究の結実はないとの判断が働いたからだ。米国は有望な研究には、個人の寄付や企業などの潤沢な資金が投資される。世界トップレベルの大学や研究機関が集まるカリフォルニア州やマサチューセッツ州は、数百億円単位の研究費を投じ、幹細胞研究を推進している。

 iPS細胞の登場により、細胞や分析機器などの幹細胞市場は活性化している。米民間調査会社によると、米国の幹細胞市場は年率30%で成長しており、2012年には約460億円に達するという。

 幹細胞市場の発展で重要になってくるのが、知的財産の確保だ。外国の企業に特許を押さえられると、iPS細胞を利用した再生医療が実現しても、医療費の高騰を招く恐れがある。

 このため、京都大は6月、三井住友銀行など金融3社の出資をもとに、iPS細胞の関連特許を管理・活用する会社を設立。他大学や研究機関の知財も管理し、知財の面でもオールジャパン体制を目指す。松本紘・京大次期学長は「日本全体のiPS細胞研究を発展させたい」と意欲を語る。

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ウイルス感染の手口

独立行政法人 情報処理推進機構(略称 IPA、理事長:西垣 浩司)は、2008年12月および2008年年間のコンピュータウイルス・不正アクセスの届出状況をまとめました。
(届出状況の詳細PDF資料はこちら)

1. 今月の呼びかけ
 「ウイルス感染の危険と隣り合わせの状況を知ろう!」
  従来の常識が通用しないほど、感染の手口が巧妙になっています


 2008年のウイルスの傾向を振り返ると、感染の手口が巧妙になってきたことが挙げられます。今までは安全と言われていた PDF(Portable Document Format)ファイルやWordファイル等のデータファイルにウイルスが潜んでいたり、有名な企業のウェブサイトが改ざんされ、そのページを閲覧したパソコンにウイルスを取り込ませる仕掛けになっていた事例が確認されました。また、普段何気なく利用している USB メモリを介してウイルス感染する事例もありました。このように、いつの間にかウイルスに感染してしまう危険性と隣り合わせの状況へと変化しました。

 これらの手口によってウイルスに感染すると、オンラインゲームのアカウント情報(ID やパスワード)を盗まれ、ゲーム内のアイテムを窃取される、パソコン内の重要なファイルを削除され、システムが破壊されるといった被害が起きることがあります。

 ウイルス感染の被害に遭わないよう、新しい感染の手口を認識し、ウイルス対策の基本を再確認しましょう。

(1)巧妙化するウイルス感染の手口
 2008年を通してウイルス感染の傾向を分析すると、従来は安全と考えられていた対象が、巧妙になったウイルスにより、もはや安全ではなくなってしまったといえます。その結果、以前よりも注意すべき対象が増え、対策が行き届かないケースも想定されます。次項に特徴的な傾向を3つ紹介しますので、感染の手口を認識してください。

(a)PDFファイルやWordファイルでも感染!
 従来、危険なファイルといえば拡張子が exe といったアプリケーションファイルでしたが、今では PDFファイルやWordファイルも危険なファイルとなっています。

 従来
  PDFやWord などのデータファイルは比較的安全。アプリケーションファイルがメールに添付されていたら危険。  

 現在
  PDFやWord などのデータファイルにもウイルスが潜んでいるケースがある。

 メールの添付ファイルを開く場合、拡張子を確認し、exe だったら危険、pdfやdoc であれば安全という認識がありました。しかし、データファイルを閲覧するために利用するソフトに脆弱性(ぜいじゃくせい)があり、それを悪用することで、ウイルスに感染させる手法が出現しています。
 実際に、特定の組織をターゲットにして攻撃を行う標的型攻撃に利用されたケースが確認されています。

— posted by サイト管理者 at 04:24 pm  

創設間もなかった帝国大学

2年後の明治16年(1883年)、大学予備門(のちの一高)を受験するには英語が必須であったため神田駿河台の英学塾成立学舎(現在の成立学園とは無関係)に入学し、頭角をあらわした。

明治17年(1884年)、無事に大学予備門予科に入学。大学予備門受験当日、隣席の友人に答えをそっと教えて貰っていたことも幸いした。ちなみにその友人は不合格であった。大学予備門時代、この時の下宿仲間に後の満鉄総裁になる中村是公がいる。明治19年(1886年)、大学予備門は第一高等中学校に改称。その年、漱石は虫垂炎を患い、予科二級の進級試験が受けられず是公と共に落第する。その後、江東義塾などの私立学校で教師をするなどして自活。以後、学業に励み、ほとんどの教科において首席であった。特に英語が頭抜けて優れていた。 本籍地は北海道に移し、徴兵検査で甲種合格になることを避けたという逸話がある。


[編集] 子規との出会い
明治22年(1889年)、同窓生として漱石に多大な文学的・人間的影響を与えることになる正岡子規と、初めて出会う。子規が手がけた漢詩や俳句などの文集『七草集』が学友らの間で回覧されたとき、漱石がその批評を巻末に漢文で書いたことから、本格的な友情が始まる。このときに初めて漱石という号を使う。漱石の名は、唐代の『晋書』にある故事「漱石枕流」(石に漱〔くちすす〕ぎ流れに枕す)から取ったもので、負け惜しみの強いこと、変わり者の例えである。「漱石」は子規の数多いペンネームのうちの一つであったが、のちに漱石は子規からこれを譲り受けている。

同年9月、房州(房総半島)を旅したときの模様を漢文でしたためた紀行『木屑録』(ぼくせつろく)の批評を子規に求めるなど、徐々に交流が深まっていく。漱石の優れた漢文、漢詩を見て子規は驚いたという。以後子規との交流は、漱石がイギリス留学中の明治35年(1902年)に子規が没するまで続く。

明治23年(1890年)、創設間もなかった帝国大学(後に東京帝国大学)英文科に入学。この頃から厭世主義、神経衰弱に陥り始めたともいわれる。先立つ明治20年(1887年)の3月に長兄・大助と死別。同年6月に次兄・栄之助と死別。さらに直後の明治24年(1891年)には三兄・和三郎の妻の登世と死別と次々に近親者を亡くした事も影響している。漱石は登世に恋心を抱いていたとも言われ、心に深い傷をうけ、登世に対する気持ちをしたためた句を何十首も詠んでいる。

翌年、特待生に選ばれ、J・M・ディクソン教授の依頼で『方丈記』の英訳などする。明治25年(1892年)、兵役を逃れるために分家し、貸費生であったため、北海道に籍を移す。同年5月あたりから東京専門学校(現在の早稲田大学)の講師をしてみずから学費を稼ぎはじめる。漱石と子規は早稲田の辺を一緒に散歩することもままあり、その様を子規は自らの随筆『墨汁一滴』で「この時余が驚いた事は漱石は我々が平生喰ふ所の米はこの苗の実である事を知らなかったといふ事である」と述べている。7月7日、大学の夏期休業を利用して、松山に帰省する子規と共に、初めての関西方面の旅に出る。夜行列車で新橋を経ち、8日に京都に到着して二泊し、10日神戸で子規と別れて11日に岡山に到着する。岡山では、次兄・栄之助の妻であった小勝の実家、片岡機邸に1ヶ月あまり逗留する。この間、7月19日、松山の子規から、学年末試験に落第したので退学すると記した手紙が届く。漱石は、その日の午後、翻意を促す手紙を書き送り、「鳴くならば 満月になけ ほととぎす」の一句を添える。その後、8月10日、岡山を立ち、松山の子規の元に向かう。子規の家で、後に漱石を職業作家の道へ誘うことになる当時15歳の高浜虚子と出会う。子規は明治26年3月大学を中退する。


[編集] イギリス留学
明治26年(1893年)、東京帝国大学を卒業し、東京高等師範学校の英語教師になるも、日本人が英文学を学ぶことに違和感を覚え始める。前述の2年前の失恋もどきの事件や翌年発覚する肺結核も重なり、極度の神経衰弱、強迫観念にかられるようになる。その後、鎌倉の圓覚寺で参禅をするなどして治療をはかるも効果は得られなかった。

明治28年(1895年)、東京から逃げるように高等師範学校を辞職し、菅虎雄の斡旋で愛媛県尋常中学校(現在の松山東高等学校)に赴任する。ちなみに、松山は子規の故郷であり、2ヶ月あまり静養していた。この頃、子規とともに俳句に精進し、数々の佳作を残している。


ロンドン滞在時の夏目漱石の最後の家明治29年(1896年)、熊本県第五高等学校(熊本大学の前身)の英語教師に赴任後、親族の勧めもあり貴族院書記官長中根重一の長女鏡子と結婚をするが、3年目に鏡子は慣れない環境と流産のためヒステリー症が激しくなり白川井川淵に投身を図るなど順風満帆な夫婦生活とはいかなかった。家庭面以外では、この頃漱石は俳壇でも活躍し、名声を確保していく。

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— posted by サイト管理者 at 04:04 pm  

墨の発展を受けて

マカオから「茶」を輸入
ポルトガル語 (chá)

[編集] テーに由来する呼び名を持つ主な言語
オランダから「茶」を輸入、若しくは、オランダの植民地
オランダ語 (thee)、英語 (tea)、ドイツ語 (Tee)、ハンガリー語(tea)、イディッシュ語、ヘブライ語(תה te)
フランス語 (thé)、スペイン語 (té)、イタリア語 (tè)、ラテン語
デンマーク語(te)、ノルウェー語(te)、スウェーデン語(te)、フィンランド語(tee)、エストニア語(tee)、ラトビア語、アイスランド語(te)
アルメニア語
インドネシア語(teh)
イギリスの旧植民地、または旧植民地の茶産地
マレー語(teh)
タミル語、シンハラ語

[編集] 上記の系統に属さない呼び名を持つ主な言語
ビルマ語(ラペッ)
上海語(ゾー)- 字は同じ「茶」
福州語(ター)- 字は同じ「茶」

茶の木
[編集] 喫茶の歴史

[編集] 中国
書籍に現れるものとしては、紀元前2世紀(後漢)の『爾雅』に見られる「檟」、または司馬相如の『凡将篇』に見られる「荈詫」(セツタ)が最初とされる。漢代の『神農本草経』には「荼草」や「選」として記載があるが、これらは今で言う「茶」ではなく、苦菜であったと考えられている。

現在の茶は、後漢「僮約」に初めて述べられており、当時の四川省では茶で客をもてなしたことや、流通があったことが推測されている。(この考察は顧炎武による。)

四川省は茶のルーツとされる雲南省にほど近く、漢人はそことの接触により茶の存在を知ったと考えられる。ただし雲南においては茶は多くの場合に草として調理され食べられるものであり、それを湯に入れてだし汁を飲むように改良したのは、煎じ薬の伝統を持つ漢人であろう。

喫茶文化は、四川から長江を下って次第に広がり、魏晋南北朝時代には長江流域で楽しまれたとされる。さらに唐代では長江流域が大規模に開発され、その物資が大運河を通って華北にも齎らされたことから、茶の栽培が盛んとなり、庶民の間にも広まった。長安・洛陽では喫茶店が立ち並んでいたと言う(比屋之飲)。あまりに広く流通したため、唐後期になると茶は政府の専売とされ、その税収は唐王朝を支えた。

その中にあって、始めて体系的に喫茶の技術や思想を記そうという試みが現れ、陸羽(? - 804年)の書いた『茶経』が著された。遣唐使などを通じて日本にも茶がもたらされたが、この時代の茶は団茶といって醗酵が不十分で硬くつき固めた茶であった。(もっとも庶民は安価な葉茶を楽しんだと思われる。)

団茶は五代から宋代にかけて、墨の発展を受けて、墨のように香料を錬りこみ、金模様を施した研膏茶に発達した。研膏茶は手間暇がかかることから、高級茶とされ、皇帝にも献上された。そして茶を試飲して産地や銘柄を当てる茶会の闘茶が開催された。また、国内においては専売を布き、国外においては大量の輸出を行って北宋以後の王朝の財政収入に貢献したとされる。

寺院、特に禅寺では修行中の眠気を払う目的から、茶が自家栽培され、栄西らがそれを日本に持ち帰り、日本の緑茶文化を始めたことは有名である。

また宋代では陶磁器が発達したことから、茶器もまた発達を見た。僧院が集中していた天目山で使われていた茶器は「天目茶碗」として日本ではプレミアがついて取引されたが、中国ではそのような茶碗は泥臭いとされ、より繊細な青味がかった磁器が好まれた。

明代になると、洪武帝は民に負担のかかる研膏茶の献上を廃止したため、研膏茶は廃れ、代って手間のかからない散茶が盛んになった。葉を揉んで葉緑素を破壊して茶の出を良くし、蒸して酸化醗酵を止める製法が使われたが、その製法は江戸期に日本に伝えられ、抹茶に代わって日本茶の主流となった。(その後中国では釜で煎って酸化を止める製法が主になる。)

清代も後期になると、烏龍茶や紅茶のような半醗酵・全醗酵の茶が開発され、福建省を中心に生産された。そしてそこからイギリスなどに向けて輸出されたため、茶を表す福建語の「テェ」が英語に取り入れられ、teaとなった。そしてこの時代に「工夫茶」と呼ばれる中国喫茶文化が形作られて行った。

茶は北方や西方の周辺遊牧民族においても大いに需要があった。もとより当時は近代栄養学の知識はなかったが、特別に加工された種類の茶は、野菜をほとんど摂取しない当時の遊牧民にとって限られたビタミンCの補給源であった。これらの地では茶の生産が不可能であるため、中国との交易に依存していた。現在でもチベットやモンゴルの伝統的食生活では茶は欠かせないものである。

参照してください。

— posted by サイト管理者 at 11:29 am